アンゲラ・メルケル独首相の卒業式スピーチ(2019年5月30日、ハーバード大)

 スタンフォード大卒業式でのスティーブ・ジョブズのスピーチ(2005年)で知られるように、米国の大学の卒業式では、著名人がスピーチをすることが多く、テキストや動画がウェブ公開されるものも多い。毎年、そうしたスピーチを読むのを楽しみにしている。今年5月30日には、ドイツのメルケル首相がハーバード大学の卒業式でスピーチを行っている。
 メルケル氏は、旧東ドイツで育ち、1989年のベルリンの壁崩壊をきっかけに物理学者から政治家へとキャリアを転換している。氏の歩みは、戦後のヨーロッパ史を体現しているようで興味深い。が、それ以上に、自身の経験をふまえて卒業生に伝えた「6つの考え方」が示唆に富んでおり、たいへん感銘を受けた。以下、スピーチの流れにそってご紹介していきたい。(部分訳は拙訳)

 冒頭で、メルケル氏は卒業を迎えた学生たちへのはなむけとして、ヘルマン・ヘッセの詩の一部を引用する。

In all beginnings dwells a magic force
For guarding us and helping us to live.
(すべてのはじまりには、魔法の力が隠れていて、私たちを守り、私たちが生きていくのを助けてくれる)

 自身も、1978年に卒業(物理学の学位を取得)したときに、この言葉にインスパイアされたそうだ。
 
 東ドイツで育った頃のことを、氏は、「人々は抑圧され、国家によって監視され、政治的な反対勢力は弾圧された」と振り返る。卒業後に科学アカデミーに就職すると、毎日ベルリンの壁の前を通り、「あの向こうに自由がある」と思いながら職場に通ったという。

The Berlin Wall limited my possibilities. It was literally in my way. But one thing that this wall could not do in all these years: It could not impose limits on my own inner thoughts. My personality, my imagination, my yearnings -- these could not be limited by prohibitions and coercion.
(ベルリンの壁は私の可能性を制限していた。文字通り、私のいく手を阻んでいた。けれどもこの頃、この壁がたったひとつ、阻むことができなかったのは、内なる思想を制限すること。個性、想像力、あこがれといったものは、禁止や弾圧によって制限されることはなかった。)

 
 そして、1989年に壁が崩壊する。「暗い壁だったところに、突然ドアが開いた。私にも、そのドアを通り抜ける瞬間が訪れた。」
 次の部分で、メルケル氏が卒業生に1つめのメッセージを伝える。

During these months, 30 years ago, I personally experienced that nothing has to remain as it is. This experience, dear graduates, is the first thought I would like to share with you today for your future: What seems fixed and unchanging can in fact change.
(30年前に経験したことは、変わらないものは何もない、ということ。私が今日、皆さんの未来のためにシェアしたい第一の考え方は、「固定していて動かないように思われるものでも、変えることができるのだ」ということ。)

 
このあとメルケル氏は、ホロコーストと第二次大戦による文明の破壊を経験した、氏の両親の世代に触れる。ドイツ自体が加害者となった「想像を絶する破壊(unimaginable suffering)」にも言及しつつ、戦後のヨーロッパにおいて、何世紀にもわたる対立に終止符が打たれ、共通の価値観に基づき、勝者と敗者の間の和解が行われたことを語る。
 メルケル氏は戦後のヨーロッパとアメリカの関係にも言及する。マーシャル元国務長官のいわゆる「マーシャル・プラン」(欧州復興計画)は、奇しくも1947年に、マーシャル氏のハーバード大での卒業式スピーチにおいて発表された、とメルケル氏は述べる。

 続いて、メルケル氏は歴史から未来に視点を転換し、保護貿易や気候変動など21世紀が直面している課題に触れ、第二の考え方をこう伝える。

And so this is my second thought for you: More than ever we have to think and act multilaterally instead of unilaterally, global instead of national, cosmopolitan rather than isolationist. In short, together instead of alone.
第二の考え方:私たちは今後ますます、一国主義ではなく多国間主義で、一国の立場からではなくグローバルに、孤立主義者としてでなくコスモポリタンとして、考え・行動しなければならない。つまり、「一人で」ではなく「一緒に」。)

 
 さらに、氏はAI(人工知能)など、近未来の技術によって開かれる可能性について語る。そうした新しい技術の存在を前提として、働き方や、コミュニケーションの仕方、生き方そのものをどう変えていくかを決めていくのは、皆さんの世代だ、と。そして、第三の考え方について、こう述べる。

As Federal Chancellor, I often have to ask myself: Am I doing the right thing? Am I doing something because it is right, or just because it's possible? You should ask yourself that again and again -- and that is my third thought for you today: Do we set the rules of technology or does technology determine how we interact? Do we focus on people with their dignity in all its many facets, or do we only see the customer, the data sources, the objects of surveillance?
(首相として、私はいつも自問してきた。「私は正しいことをやっているか? 正しいからそれをやっているのか、あるいは、単に可能だからという理由でやっているのか?」 皆さんも、何度もなんども自問しなければいけない。第三の考え方:「我々自身がテクノロジーのルールを決めているのか、あるいはテクノロジーが我々の行動を決めているのか? 人々のあらゆる面での尊厳に目を向けているのか、それとも、顧客やデータ・ソースや監視の対象だけに目を向けているのか?」)

 この次の部分で、メルケル氏は自身が政治家としての経験から学んだことを、こう述べる。

I have learned that answers to difficult questions can be found if we always see the world through the eyes of others; if we respect the history, tradition, religion, and identity of others; if we firmly stand by our inalienable values and act accordingly; and if we do not always follow our initial impulses, even with all the pressure to make snap decisions, but instead stop for a moment, keep quiet, think, take a break.
(こうした難しい問題への答えをみつけるために必要なことは、①世界をいつも他者の視点で見ること、②他者の歴史・伝統・宗教・アイデンティを尊重すること、③自らの尊厳を守り、それに従って行動すること、④即断即決しないといけない場面でも、衝動的に行動するのでなく、立ち止まって沈思黙考し、一息いれること。)

 この部分は、衝動的に行動しているように見える政治家(一国の指導者)が多い中、メルケル氏らしい、含蓄に富んだ言葉として、私自身は受け取った。

 スピーチの後半に入り、メルケル氏は再び“壁”に触れる。現在、「心の中の壁、無視や狭量といった壁が存在する。家族の中にも、社会集団の間でも、肌の色や人種や宗教の違う人々の間にも存在する」。こうした壁を壊したい、と説く氏は、第四の考え方についてこう述べる。

Therefore, dear graduates, my fourth thought is this: Take nothing for granted. Our individual freedoms are not self-evident; democracy is not self-evident; neither is peace nor prosperity.
But if we tear down the walls that restrict us, if we open the door and embrace new beginnings, then everything is possible. Walls can collapse. Dictatorships can disappear. We can stop global warming. We can overcome hunger. We can eradicate diseases. We can give people, especially girls, access to education. We can fight the causes of displacement and forced migration. We can do all this.
第四の考え方:当たり前に存在するものは何もない。個人の自由も、民主主義も、平和も繁栄も、自明のものではない。
私たちが、私たちを縛っている壁を壊し、ドアを開け、新しい始まりを歓迎するなら、あらゆることが可能になる。壁は壊れ、独裁は終わる。地球温暖化を止めることも、飢餓を打ち負かすことも、病気を根絶することも、女子が教育を受けることも、移民を余儀なくする原因と戦うことも、すべて実現可能だ。)

 
 第五の考え方はこう続く。

And with these words I would like to share with you my fifth thought: Let us surprise ourselves with what is possible -- let us surprise ourselves with what we can do.
第五の考え方:何ができるのか、によって私たち自身を驚かせよう。)

 メルケル氏は、ベルリンの壁が崩れた時、科学者としての過去を捨て、政治の世界に入った。それは、エキサイティングでmagical timeだったが、疑念や不安もあった、という。その経験から、第六の考え方が導き出される。

Therefore, as my sixth thought, I can also tell you this: The moment you stand out in the open is also a moment of risk. Letting go of the old is part of a new beginning. There is no beginning without an end, no day without night, no life without death. Our whole life consists of this difference, the space between the beginning and the ending. What's in between, we call life and experience.
第六の考え方:開かれた世界では、リスクもある。古いものを手放すことは、新しいことの始まりである。終わりがあるから始まりがあり、夜があるから昼があり、死があるから生がある。私たちの人生は、こうした対立から成っていて、始まりと終わりの間の空間でできている。この間にあるものを、私たちは「人生」や「経験」と呼ぶ。)


最後に、メルケル氏は冒頭で紹介したヘルマン・ヘッセの詩の言葉に再び触れる。すなわち、「はじまりの魔法」を感じることで物事を達成することができ、機会を生みだすことができるのだ、と。
まずは「自分の心の中の壁を壊すべき」というメルケル氏のメッセージは、大学という守られた空間から社会に出ていく若者たちの背中を押したであろうことは間違いない。このスピーチを聞いた中から、「変えられないものは何もない」という信念のもとに世の中を変えていくリーダーが、必ずや生まれてくることと思う。