エモーショナル・クロージャー

 12月も半ばとなり、今年もあとわずか。今年の秋以降、様々な講演会、フォーラムに参加する機会が多く、印象的なお話を数多く伺った。
 その中でも最も印象的だった、ジャレッド・ダイアモンド氏(進化生物学者・ピュリツァー賞作家)の言葉を書き留めておきたい。

ニューギニアのような伝統社会では、争いごとがおこると、現代社会の訴訟と異なり、一生つきあっていかないといけない人間関係の中での解決策として、エモーショナル・クロージャーが大切にされる。

 これはダイアモンド氏が「日立ソーシャル・イノベーション・フォーラム2017」(2017年11月1日)の基調講演の中で語ったものだ。
 ダイアモンド氏は、このことを説明するために、ニューギニアで、少年を車でひいてしまった男性の例を挙げた。亡くなった男の子の父親に対して、「もし自分の息子に同じことが起きたら、どれほど自分は深く悲しむだろう。そう思うと、あなたの悲しみは思って余りある」ということを切々と述べたという。すると、被害者の父親は「わかりました。私たち一族は、あなたに復讐しません」と、赦してくれたそうだ。
 ダイアモンド氏は、自身がアメリカで訴訟を起こしたとき、相手はもともと一回きりの取引の相手で、もう二度と会わないような人であり、訴訟は事務的に淡々と行われたと語った。いかに伝統的社会(ニューギニアのような、500万年前からの連続性のある社会)と、わずか1万年やそこらの歴史しかない現代社会で、「争いの解決」が異なるものであるか、と。
 この話を聞いたときに、二つ思い浮かんだことがある。一つは、故・阿部謹也先生の「世間論」だ(講談社現代新書の『世間とは何か』、朝日新聞社『日本社会で生きるということ』などで読むことができる)。阿部先生がいうところの世間=日本社会は、アメリカ社会よりも、500万年の伝統を引き継いだ社会であるニューギニアに近いのではないか。たとえば、同じコミュニティ(世間)に属する人への贖罪は、裁判での勝ち負けに関係なく一生つづき、多くの場合、加害者の親や兄弟も、罪の意識を負い続ける。
 もう一つは、非言語コミュニケーションと、言語コミュニケーション(特に文字によるコミュニケーション)について。ちょうど今年、私自身が「eメールの書き方」の研修の講師をしたのだが、そのときに「なぜeメールは炎上しやすいのか」というテーマを扱った。対面での話し言葉によるコミュニケーションの場合は、顔の表情や声のトーンといった、非言語で補うことができるが、メールなどの書き言葉のやりとりでは、そうしたもので補えない。「聴く」ことにより相手の反応をみることもできない。それで、論理と論理の応酬になった場合、不幸にして、炎上してしまうことがある。こうした炎上を避けるには、論理的に正しいかどうかではなく、相手の感情に寄り添うことができているかどうかが肝心なのだ。私たち人類が、文字をもつようになってからはわずか数千年。その前の非言語コミュニケーションの500万年の伝統が、いかに強く現代においても作用しているか。それを物語っているように思えてならない。
 なお、ダイヤモンド氏は、けっしてニューギニア社会(伝統社会)を礼賛して、現代がダメだと言っているわけではなく、講演では「現代人の我々も、伝統社会から学べることが多くある」点を力説した。そのスタンスは、氏の近著『昨日までの世界』でも貫かれている。
 阿部先生の書籍のタイトルをもじって言えば、日本社会でいかに生きるか、には、西洋近代社会と、ニューギニアのような伝統的社会という、二つの参照軸があるのだ。そんなことを思いながら講演を聴き、今なおこのテーマについて、考え続けている。