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「あらゆる音楽は、作曲されたときは常に『現代音楽』である」——藤倉大さんが紡ぐ未来

昨夜(6月26日)の興奮は一夜明けてもまだ冷めていない。今回、私自身は3回目の参加となった、石倉洋子さん主催の「ダボスの経験を東京で」第27回 は、世界的な作曲家・藤倉大さんをゲストに迎えての会だった。

事前に、藤倉さんのインタビュー記事を読んだり、CD(Secret Forest)を聞いたり、と少し“予習”をしていた。けれども、生で藤倉さんの曲のクラリネット・ソロ(吉田誠さん)、チェロ・ソロ(細井唯さん)を聴き、その解説、背景を藤倉さんの口から聞いて、私の抱いていた「音楽についての思い込み・前提」が崩れ落ちるような気がしたのだ。一つは、「12音階」「この楽器はこう弾くもの」という思い込み、もう一つは、「今つくられる音楽は今の聴者のためのもの」という思い込みである。

先に、報告を兼ねて昨夜の会の流れをかいつまんで紹介しておく。まず、藤倉さんのトーク(ピアノの練習が嫌いで8歳で作曲を始め、15歳でのロンドン留学、以後、近作のオペラ「ソラリス」のヨーロッパ・アメリカでの公演など最近の活動まで)のあと、吉田さん、細井さんそれぞれの演奏と、藤倉さんの解説。続いて、参加者がグループに分かれてのアイデアストーム・セッションとなった。ディスカッションのテーマは、「あまりなじみがない現代音楽を多くの人に知ってもらうためには何ができるか?」というものだった。ディスカッション自体、たいへん興味深かったが、今日はそのことには触れない。

吉田さんのクラリネットは、通常出すべき音と同時に、本来はならしてはいけないはずの高音の倍音もならしながらの二重音声での演奏、というものだった。それを完全にコントロールした状態で……。(高校時代に吹奏楽部でクラリネットを吹いていた頃、予期せぬときにこの倍音が出てしまってヒヤっとしてしまったことがある。)

細井さんのチェロは、弦をたたく、というあまり見た(聞いた)ことのない奏法などを駆使してのものだった。こちらは、YouTubeに、ちょうど細井唯さんの演奏があるので視聴していただきたい。


現代音楽(クラシック音楽の世界での現代音楽)に詳しい方なら、何をいまさら、と思われるかもしれないが、私自身は「12音階」のクラシックの世界に慣れ切ってしまっていて、チューニングが合っていないなどの状態に居心地の悪さを感じてしまう。しかし、藤倉さんの音楽は、12音階や、この楽器はこうひくものだよね、という前提をことごとく覆してしまう。しかも、それを偶然性にゆだねるのでなく、必然として(計算し尽くして)行っているのだと、インタビュー記事に書かれていた(朝日新聞Globe Dai Fujikura「心地よい不協和音求めて完全に計算された世界を作りたい」)。

もう一つの、今つくられる音楽が誰のものか、という点について。藤倉さんは、お話のなかで、ストラヴィンスキーの「春の祭典」が、パリのシャンゼリゼ劇場で1913年に初演されたときに、悪評ふんぷんだった、見たこともない音楽を誰も理解できなかった、ということを話された(藤倉さんの「ソラリス」の初演が、シャンゼリゼ劇場でされた、というのはおそらくこのことを踏まえているのだろう)。

そして、ウィスキーを例にとって、今つくられるウィスキーは未来の人が楽しむもの、音楽もそういう可能性を持つものというお話をされた。同様の趣旨のことを、上記とは別のインタビューで述べている(Fifteen Questions Interview with Dai Fujikura )。

Oh boy … well, I always imagine, that we are the creators who first create the 'whisky'. Then commercial musicians (pop musicians) are the ones who bottle this 'whisky', years and years later and then sell them to the public. Maybe by that time the original creators of the whisky might not be alive, but it is a romantic thought that someone in the future might open the bottle and enjoy the whisky.

会のあとの懇親会のときに、藤倉さんは参加者の1人の方からの、クラシック音楽と現代音楽はどこで線引きがされるのですか、といった質問に答えて、「あらゆる音楽は、作曲されたときは常に『現代音楽』です」と語っておられた。たしかに、言われてみれば、作曲されたその時には現代音楽であり、その曲が忘れ去られずに10年、何十年、百年と残っていったときに、未来の読者が「古典」と判断するのだ。

聞いたことのないもの、見たことのないものについて、私たちは「居心地の悪さ」や、時には拒否反応を感じる。イノベーション一般と同様、音楽のような芸術であっても、常識をくつがえす破壊的なものであればあるほど、最初は受け入れられない。けれども、藤倉さんのような最前衛の芸術家は、現代におもねることなく、時に「受け入れられない」リスクを冒しても、遠い未来を見据えているのだろう。

昨夜見聞きしたことは、まだよく理解できていないけれど、「音楽とはこういうもの」という前提が打ち砕かれた落ち着かない感覚とともに、“未来”をかいま見た(ような気がした)この感覚を、ずっと覚えていたいと思う。

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