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境界が消える時代に感じる未来の足音

変化というものはひたひたと訪れるので、一つひとつは小さな変化でも、はっと気がついたときにはすでに大きく変わってしまっている、ということが多い。
最近、主にウェブやソーシャルメディアを眺めながらとくに感じるのは、「私」と「あなた」と「みんな」との境界、「私有」と「共有」の境界が、どんどんあいまいになりつつあるということだ。

いくつか例を挙げてみよう。
・セルフィー(自撮り) 撮る人と撮られる人、他者の目と自分の目の境界がなくなってきている(デジカメがでてきたときに「モノ撮り」をする人が増えたことが、当時大きな驚きだったけれど、スマ―トフォンによる「自撮り」の普及は、それ以上に衝撃的)

・Pinterest 所有(私有)と共有の境界があいまいに。自分の部屋にピンで好きな画像をクリップする、というアナログ時代には超私的だった行為が、共有のものとなった。

・チャット 書かれるのに「チャット」と呼ばれることが象徴するように、語り言葉と書き言葉の境界があいまいに。

・ダイアリーのブログとしての公開 日記(=本来、非公開のもの)の公開。

・メールマガジン mail(手紙)は本来1:1のはずのものが、1:多に。

・ソーシャルネットワーク 人間関係(誰と誰にコネクションがあるか)という、従来は秘密だったものがオープンに。

・スナップチャット(10秒で消える動画・写真) 写真や動画というのは、消えてしまうものを記録し、永遠にとどめるために発明された。それが10秒以内に消えてしまう。複製芸術を根本から覆すような新たなツールだ。

このように、「私」と「あなた」と「みんな」との境界、「私有」と「共有」、あるいは「所有」と「使用」の境界があいまいになっている現在、「たしかなもの」、たしかな手触りのあるものをどうやって見つけていくのか。
いくつかのヒントがある。

・「農」の再発見
家庭菜園を借りたり、あるいは若者が地方にIターン、Uターンして農業にたずさわったり。あるいはそこまでではなくても、「食」への関心から産地を気にするようになったり。「農」の再発見は、「たしかなもの」をもとめての動きのように思える。

・DIY(ブリコラージュ)「手作業」の再発見
DIYブームは、手作業、手仕事の再発見ではないだろうか。家の雨漏りを直したり、洋服に開いた穴ををつくろったり。お金がない時代にしかたなくやっていたことが、今は、「楽しみ」として行われる。(かく言う私も、最近すっかりDIYにはまっている)

・新しい「時間資本主義」
松岡真宏氏の近著『時間資本主義の到来』は示唆に富む。そこで示される世界は、時間が統一のモノサシとなった近代から、複数の時間が存在した「前近代」への逆行のようにも見える(ポスト・モダン=プレ・モダン)。氏曰く、「さまざまな情報が手に入るようになった時代、最終的に残るのは1対1で話をすることの価値だけなのだ」。

これらのヒントから、おぼろげながら、新しい地平が見える。それを、大胆に予想すると…。
・舞台やライブ、演奏会など、一回きりの(再現性のない)のものの価値が高まる。
・多読の時代から精読が見直される時代、精読に足るテキストが評価される時代になる。
・1対1で人と会うこと、読書会や朗読会、勉強会などのリアルの会合にゆっくり時間をかけることが、贅沢な楽しみになり、そうしたことを可能にする空間や、それをオルガナイズできる人が価値を生む。
・「手作り」に象徴される、ただひとつのもの、の価値が高まり、職人仕事が見直される。
・現在のペットブームの先に、子供を産み育てること(不確かで予測不可能で、再現性がなく、ただひとつのもの)が究極の贅沢として見直されるようになり、少子化に歯止めがかかる。

予測なので、もちろんはずれること覚悟だが、こんなふうに未来を考えてみると、先行きは案外暗くないのではないだろうか。