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転職、独立。「敗北」からの出発

備忘録

 久しぶりに、ちょっと真面目なテーマ、自分自身のキャリアについてのブログです。
 今年4月に、母校の卒業生女性向けのイベントを手伝った関係で、自分自身のキャリアについてふりかえる時間が増えました。これまでも当ブログにちらちらと書いてきましたが、あらためて、少しまとまった形で書いておきたいと思います。
  私が大学を卒業したのは1990年3月。前年の年末に、日経平均株価が3万8915円をつけ、世にいうバブルの絶頂期です。就職活動は、大学4年の5月に「解禁」になりましたが、同級生たちが5月、6月で就職を決めていく中、私はなかなか決まらず、夏の間もずっとリクルートスーツを着て企業をまわっていました。最終的には、9月に行われた新聞社の後期採用試験(当時は、新聞社は5月頃と9月と2回に分けて採用試験があった)を受け、その後の面接で内定をもらうことができ、翌春、その新聞社の書籍出版部門に就職しました。
 もともと、「早く家を出たい、自立したい」というのが、10代の頃の最大の目標であった私にとって、社会人になる、働いてその対価として給料を得られる状態になったということが、まず嬉しくてしょうがありませんでした。そして、仕事内容も、昔から好きだった編集の仕事でしたから(私は小学生の頃から、文集の編集などをやっていました)、とくに最初の1年くらいは、毎日が新鮮で何もかもが楽しい、という状況でした。
 2年目、3年目となると、徐々に結果が求められるようになり、身体を壊したりと苦しい時期もありましたが、なんとか結果も出せるようになり、この間に結婚。社会人になって5年目には第一子を出産しました。当時の職場には、女性の先輩で出産して復帰した方がおらず、ルールがなかった分、逆に、男性の上司には、ずいぶん柔軟に対応していただき、とても感謝しています。出産前は、1カ月に150時間残業をしたりしていましたが、復帰後はさすがにそういうわけにはいかず、どうしても自分でなければできない仕事(判断を必要とする仕事)と、そうでない仕事に分けて、そうでない仕事は派遣社員の方にお願いするなどして、なんとか乗り切ってきました。持ち帰り残業もずいぶんしました。持ち帰り仕事を朝の4時までして、少し寝て、7時に起きて、子供を保育園におくって会社へ、というようなこともしていましたが、当時は若くて体力があったので、そういうことができたのだと思います。
 夫の助けもあり、育児と仕事の両立はなんとか実現できていたと思いますが、仕事の専門性の掘り下げなどについて、だんだんと欲求不満を感じるようになり、転職を考えはじめました。実際、新卒で就職して8年半経った31歳の時に、思い切って出版社に転職しました。公募の中途採用です。当時は、出版社の求人は日曜日の朝日新聞の求人欄に出る事が多く、前職を辞める前の2年間くらいは、毎週、目をさらのようにして同紙の求人欄を見ていました。
 念願の転職を果たしたわけですが、当初はけっこう戸惑いました。新聞社と出版社という違いはあっても、仕事内容は同様に書籍編集でしたから、「つくるものが一緒なら、あまり大きな違いがないだろう」と思っていましたが、会社のカルチャーはまったく違いました。新聞社は、良くも悪くも発想が「デイリー」なので、とにかく早く(速く)仕事をすすめることがよしとされ、終わらなければ徹夜してでも仕事を間に合わせます。一方、転職して入った出版社は、万事ゆったりしていました。30年かかってシリーズものを完結させたり、ということに象徴されるように、「早く(速く)」仕事をすることより、正確で丁寧な仕事をすることのほうが重視されているように見えました。
 このようなカルチャー・ギャップで最初は戸惑いつつも、たとえば、著者と深くていねいに付き合うといった、書籍出版社ならではの良いカルチャーも学んで、6、7年はわりあい、楽しく過ぎて行きました。この間に第二子にも恵まれ、二人の子の育児との両立も、なんとかこなしてきました。
 しかし、この第二の職場でも、またもや現状に飽き足らなくなってきました。入社して8年目くらいのときに、規模の大きな仕事をして、私自身は「結果」を出したことに満足していましたが、必要な社内調整が不行き届きだったりして、この「勝利」は苦いものとなりました。「結果を出せば、新しい道が開けるだろう、新しいチャレンジが待っているだろう」と勝手に思いこんでいたのですが、そういうことは何も起きませんでした。育児の一番大変な時期を抜けて、トップギアで走れる状態になり、満を持してトップギアで走って結果を出したところ、「そんなにスピードを出さなくていいから、もっとまわりをよく見て安全運転したら」と言われたように感じたのです。
 それで、「安全運転」の技術を身につける道を選ぶか、あるいは「けもの道」に降りることを選ぶか、迷いました。半年ほど逡巡した結果、会社を辞め、独立創業することにしました。その2年前に会社法が改正されて、会社設立が容易になっていたことが追い風となりました。独立創業は、ちょうど40歳のときですが、私にとって40歳というのは、新しいことを始めるのにギリギリの年齢だったと思います(これは個人差があると思います)。幸い、独立後はいろいろな出会いに恵まれ、半年ごとくらいに仕事内容を少しずつ変えながらも、今日に至るまでの5年間、なんとか続けていくことができています。業績に浮き沈みがあるものの、万事自分で決めることができるスタイルは、(せっかちでわがままな!)私に合っているようです。
 会社勤めをしていた18年間については、仕事の結果に対しては後悔がないのですが、自分が会社の中で何を実現したいのか、といったことをもっと社内の人達に話すべきだった、という点に関してはおおいに反省しています。創業した会社(アテナ・ブレインズhttp://athenabrains.com/)のミッションに、<「言わなくてもわかる」というのは幻想であり…>と書いているのには、そういう私自身のほろ苦い経験が込められています。
 こうして振り返ってみると、私のキャリアの前半(40歳まで)は、「敗北」の物語であることがわかります。正直に言うと、なかなかそのことを自分で認めたくなかったのですが(笑)、やはり前に進むためには「負け」を認めて、いったんリセットするしかありません。そしてそこから先は、新たに選んだ道について後悔することがないよう、努力をしていくだけです。
 幸いなことに人生はけっこう長いので、これからの後半人生は、個人としての仕事人生を充実させるだけでなく、「失敗」も含めた私自身の経験をあとからくる世代に伝えて、せめて“踏み台”にしてもらえれば、と思わずにはいられません。