心理学by本田宗一郎

 私が十代の頃、自動車の修理をやっていてはじめてわかったのは、自動車の修理という仕事は、単に自動車をなおすだけではだめなのだということだった。そこに心理的要素がなければならぬということに気がついたのである。
 車をこわしたお客さんは、修理工場へ来たり、電話で連絡してきたりするまで、さんざん苦労し、憤慨し、動揺しているのが普通である。機械もこわれているが、お客の心もこわれている。(中略)
 エンコ(故障)した現場へ行って修理をすませ、こうこう、こういうわけでここが狂っていました。こうやっておきましたから、もう大丈夫ですよ、というと、お客さんはよくわからなくても「ああそうか」ということになる。
 なおりました、だけでは車はなおってもお客の心まではなおせない。いかに相手に納得してもらい、安心してもらうかが問題である。いったいに仕事上の親切というのは、相手を納得させることに尽きるのではないだろうか。
――本田宗一郎『私の手が語る』(講談社、1982年、p.104〜106)

 独創性のかたまりのように見える本田宗一郎が、実は人間の心の綾に通じた人物だったということを、この本によって初めて知った。もう一冊、『俺の考え』という本(初版は1963年刊)には、こうある。

こういうことをうちのおやじがよく言った。一尺のものさしで右から五寸、左から五寸のところが真ん中だというけれども、それはうそだ。まん中というものは、片一方から四寸、片一方から四寸いって、二寸の間をおいたところがまん中だ。そうしないと話し合いはできない。仲裁に入ることもできない。五寸、五寸でいくと衝突しちゃって、余裕がなくなってしまう。
 そういう戦争をしたのがかつての日本だった。最後のイチかバチかまで行ってしまった。言葉というものは、そこに余裕があり、ジョークがあって、ものさしでいえば二寸残っているところがたくさんあればあるほど話がしよいということを聞いて、なるほどなと思った。
――本田宗一郎『俺の考え』(愛蔵版、実業之日本社、2003年)

 少し前に、「のりしろのある人」「この人にはのりしろがある」という言い方がはやったが、本田宗一郎のいう「まん中の二寸」は、まさに、「のりしろ」のようなものに思える。あるいは、ブレーキなどの「あそび」。人間関係のクッション。
 私自身は、若い頃は、どうにもこの「二寸の余裕」の頃合いがわからなくて、こちらはガチンコ勝負のつもりが、相手は全然そんなことなくて、はぐらかされる、というようなことがよくあった。未だに「二寸」の感覚をきっちりつかめてはいないが、でも年を重ねて、少なくとも、「人間はなぜジョークを必要とするのか」ということは、わかるようになった気がするのである。