読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

本当の危機はどこにあるのか

言葉 リーダーシップ

 液体が気化する、つまり気体に変わるとき、原子数や分子数は変わらなくても、それが動き回る空間範囲が膨張する。固体、液体の状態ではさほど大きなものでなくても、「過剰な報道」という熱エネルギーを得ると、気体となって途方もなく拡散し、われわれを覆い尽くす。「マスメディアのつくる情報空間」には、そのようなイメージがある。
 とくに、このところの新型インフルエンザの日本での過剰報道をみていると、その感を強くする。もちろん、未知のものに対する恐怖というのは誰にでもあるし、正確な事実を早く伝えることは、インフルエンザのような場合は重要である。しかしそれを割り引いても、一人患者が発見されただけでメディアが大騒ぎするのは、やはり過剰だと思わざるを得ない。
 というのは、西水美恵子氏(前世界銀行副総裁)の『国をつくるという仕事』(英治出版)によって、もっと切迫した危機が、世界のそこかしこにあふれている、ということを突きつけられたからである。本書は、西水氏がアジアを中心とする各国を自らの足で歩き、貧村に泊まり、現状を把握し、問題の本質を分析し、世銀を通じて「公」のものにすると同時に、地元のリーダーを育てることによって、その現実を少しずつ変えていった類い希な記録である。ほんとうは全頁引用したいけれども、一つの例として、インドの貧村のある家庭に泊まったときの日記から書き起こされている部分だけ引用する。

 アマ(お母さん)の咳で目が覚めた。・・・幼い妹の小さな咳が、アマの咳に重なってコンコン聞こえた。・・・薪の煙がもうもうとたちこめる中、アマはかまどの前にしゃがみこんで、粟のような雑穀を煮ていた。毛布代わりのドウパタ(インド民族衣装のショール)を口にぐるぐる巻いたのに、息をするたび、針を飲んだように痛い。・・・
 ・・・電気は無理でも、せめて無煙かまどさえあったらと思う。ワシントンに戻ったら、衛生部門に調査をさせねばならない。煙が人体に及ぼす害を調べなければならない。・・・
 その後しばらくしてのこと。調査を終えた衛生部門の職員が報告に来た。「なぜ今まで気がつかなかったのか」と、真っ青な顔をしていた。結果を聞きながら、私も青くなった。
 母親に背負われてかまどの煙にさらされる幼児は、急性呼吸器官炎症や種々伝染病にかかる確率が、約六倍にもなる。インド農村地帯では、無煙エネルギーに転換すると、五歳以下の幼児死亡率が半減する。
 妊婦への影響もひどかった。煙たい台所に入り浸りの妊婦の死産率は五割高。薪集めや水汲みの重労働に、女衆が一日平均六時間を費やすインド農村地帯の流産の率は約三割で、全国平均の五倍近くだった。・・・
 インドの女性と子供の死因を洗い直した結果、かまどの煙による室内汚染が、第一死亡原因であると判明。インドのみではなく、発展途上国全体で推定すると、年間約二百万人の女性と子供が、室内汚染で死亡している計算になった。・・・
 無煙かまどを備えるだけで、障害調整生存年(疾病で失われた生命や生活の質を包括的に見る指標で、人々が被る苦痛や障害を考慮して測定する生存年数)一年毎に、約五千円から一万円の医療費が節約されると推測できた。無煙エネルギーを供給すれば、その倍の一万〜二万円の節約になった。この結果は、電気など無煙エネルギーを供給する開発事業の社会的利益に対する判断基準を大きく変えた。(p.222〜224)

 本書の各篇から、目を覆いたくなるような現実が、これでもかこれでもか、と突きつけられ、その意味で読むのがつらい本である。それでも、そのような現実を変えようと努力する人々(その多くは女性たちだ)と、それらリーダーを育て、支援する西水氏のありように、感動を覚えずにはいられない(この本をコメント欄で薦めて下さったid:Ronronさんに深く感謝)。

 インフルエンザの話にもう一度もどすと、日本においても、この十年、毎年三万人を超える方が自殺で亡くなっている。自戒を込めて書くが、過剰報道に過剰にふりまわされることなく、冷静に見渡せば、私たちが知らなければならない現実は、ほかにもっとあるのだ。

国をつくるという仕事

国をつくるという仕事