500円!5%?それなら私にもできるかも。―「第26回 ダボスの経験を東京で」

5月22日、石倉洋子さんが主催している「第26回 ダボスの経験を東京で」イベントに参加しました。このイベントに参加するのは2回目。すべて「英語」(ただし、懇親会をのぞく)なので、初回は緊張しましたが、今回は2回目ということもあり、少しリラックスして楽しむことができました(石倉さんご自身のブログに、さっそく速報)が上がっています。

イベントの冒頭でまず、石倉さんから、4月後半から5月にかけてのご自身の活動の報告がありました。世界経済フォーラム東アジア会議(ジャカルタ)について。続いて、5月初めのニューヨークでの、Women Corporate Directors(WCD)の世界大会、さらには、ニューヨークから直接向かったバリ島での会合の様子についても報告がありました。 

そのあと、ゲストである松崎勉さん(ハーマン・ミラー日本の社長であり、プロボノとして石巻工房http://ishinomaki-lab.org/の立ち上げに尽力)と、ココナラ(http://coconala.com/)の代表、南章行さんのプレゼンテーションがありました。
松崎さんがまず教えてくださったのは、東日本大震災後、「同情」をモチベーションとしたボランティアは、震災直後から右肩下がりに減り続けているが、コミュニティの再生を目的としたプロボノは逆に増え続けている、ということ。そうした現状の説明のあと、松崎さん自身が、事業戦略の専門家として、石巻工房の立ち上げ、事業としての運営に参画されてきたようすが具体的に語られました。工房の家具のデザインやマーケティングには、ハーマン・ミラー社のデザイナーその他、それぞれ専門家がまさに「プロボノ」として参加しているとのことで、石巻工房のシンプルで洗練されたデザインの由来がよくわかりました(グッドデザイン賞も受賞)。

ココナラの南章行さんのお話でまずおもしろかったのは、そもそも「二枚目の名刺」というNPOを先に運営されていて、その後、クラウドワーキングのマッチングサイトである、「ココナラ」のビジネスを創業された点です(その逆の順序で開始する場合が多いと思っていたので)。
そして、自分の得意な分野なスキルを“出品”し、お客さんを見つける、という方式のココナラの紹介があったのですが、そこで出費されているスキルの多彩さ(コピーライティング、プレゼンプラン、詩をつくる、占い、etc.)に驚くとともに、エントリーポイントは一律「500円」という点が、出す側にとっても買う側にとっても受け入れられやすいのだろう、と思いました。
 いくつかの事例が紹介されました。たとえば、ココナラに翻訳のスキルを売り出した方(たしか台湾の方)。ココナラでの経験で、どういうマーケットで売れるのか、ということがわかって、その後、本格的にビジネス展開し、日本にとどまらず、アジア数カ国に支店を出すまでになったそうです。こうした例を聞いて、「ゼロ→1」の方法、つまり最初のお客さんを見つける上で、ココナラを利用するのは大変有望ではないかと思いました。

お二人のプレゼンのあと、参加者皆が5〜6人のグループにわかれてのエクササイズとなりました。自分のスキルを紙に書き出し、それをもとに、みんなでディスカッションする、というものです。私のいたグループでは、皆さんそれぞれ、ご自身のお仕事とは別に、実にユニークなスキルをお持ちでした。さっそく「このスキル、買います!」とマーケットが成立したり、「こういう形にしたら売れるのでは?」など、さまざまなアイデアの交換ができました。

その後、全体で、それぞれのグループでどんなことが話し合われたかや感想の共有がありました。石倉さんが、自分の慣れ親しんだ狭い世界から出て、違う場所、違うマーケットにいけば、自らのスキルもユニークになる可能性がある、といったまとめを最後にされて、2時間ちょっとの会が終了しました。

前回は懇親会には出ずに失礼したのですが、今回は懇親会にも出て、そこでもさまざまな意見交換ができ、いろいろな方と知り合うことができました(今度は、「日本語」で!)。ゲストの松崎さんからは、「時間のかけかたとしては、現在は本業が95%でプロボノが5%くらいです」と伺うことができました。「あっ、5%なら私にもできるかも」と思ったと同時に「どの専門性でボランティアすると短時間で一番役に立てるのか、という発想転換が必要」と気づかされました。
懇親会まで入れて3時間でしたが、それがあっという間に感じられるような、中味の濃い、得るもの多い会でした。

Follow your contributionーベン・ホロウィッツの卒業式スピーチ

アメリカでは5月の後半が大学の卒業式シーズンのようで、毎年、この時期に著名人の卒業式のスピーチが報道されます(これまでにも、このブログでいくつか紹介したことがあります。ジェフ・ベゾス、ラリー・ペイジ、シェリル・サンドバーグなど)。

今年は、今日本でも『Hard Things』で話題のベン・ホロウィッツ(Ben Horowitz)が、自身も卒業生であるコロンビア大学でスピーチを行ったようで(5月19日)、同大学のサイトに記事が掲載されています(In SEAS Class Day speech, Horowitz encourages students to follow their contribution, not their passions)。

この記事に掲載されているうち、印象的な部分をご紹介します。
記事で、ホロウィッツは「パッションに従う」という月並みな言葉に警鐘をならした、という解説があり、それに続く部分です。

“Most importantly, following your passion is a very me-centered view of the world. When you go through life what you'll find is what you take out of the world over time—be it money, cars, accolades—is much less important than what you put into the world,” Horowitz said. “My recommendation would be follow your contribution. Put in your worth, give to others, help the world be better, and that is the thing to follow.”

「これが大事な点なのですが、自分のパッションに従うということは自分中心の見方で世界を見るということです。あなたがたは、これからの人生で、自分が世界から得られるものーそれがお金であれ車であれ名誉であれーよりも、あなたが世界に付け加えられるもの方がはるかに大事だということに気づくことでしょう。私がおすすめすることは、(パッションに従うというより)「自分が貢献できると思うこと」に従うことです(follow your contribution)。あなたの価値を他の人たちに与え、世界をよりよいものにしてください。それがあなたがたの行うべきことです。」

以上、意訳している部分がありますが、ご参考までに。

「contribution」という言葉には、英英辞典をみると、「an action or a service that helps to cause or increase something(何かを引き起こしたり増大させたりするのを助ける行動やサービス)」という意味があることがわかります。
ベン・ホロウィッツは今、ベンチャー・キャピタリスととして、まさにこの意味の”contribution”を行っています。彼自身の人生の“実感”がこもったこのメッセージは、きっと卒業生にストレートにとどいて、こんどは彼ら自身がその後の人生においてcontributionを行っていってくれることでしょう。

HARD THINGS

HARD THINGS

「リーディング産業」があるのがよいのか?

1990年代の半ば頃、日本の次のリーディング産業は何か、といったテーマの書籍のプロジェクトに関わったことがある。たしか、その書籍では、はっきり●●産業、といった明確な結論にはならず、複数の産業分野を取り上げていた、というおぼろげな記憶がある。
当時、「繊維」「自動車」「エレクトロニクス」につづく、日本の外貨稼ぎ頭、すなわち“リーディング産業”の次は何か、ということがメディアで議論されていた。

その後もときどき、今の、”リーディング産業”は何か、ということを考えるが、ある時期から、”日本の”という冠をかぶせることに、あまり意味がない気がしている。つまり、製造業の現地生産化はとうに進んでいるし、かつてのリーディング産業のように、欧米諸国と比べて相対的に安い日本の製造コスト、ということが成り立たなくなって久しい。したがって、日本のある産業まるごとに国際競争力がある、ということは考えにくい。
加えて、現在の、”世界の”リーディング産業は、IoTとして今また新たな様相を見せ始めているICTが象徴的なように、産業の特質そのものとして、国境を超える性質がある。

リーディング産業があることが、はたしてよいのか? 
私はそうは思わない。リーマンショックのときに、もし日本のリーディング産業が金融だったとしたら……。アイスランドと同様のことになっていただろう。(一時期、それこそ、バブル崩壊前は、金融業はいけいけドンドンであったので、もしバブルが崩壊していなければ、2000年代の日本のリーディング産業が金融業、というシナリオもありえたのではないか。)

個々の企業が、それぞれ「強み」をいかし、自社の資源を傾斜配分していくことは、企業の戦略としておそらく正しい(専門家でないので、「おそらく」としかいえないが)。ただ、日本の経済社会という全体でみたときには、”リーディング産業”がなく、多様なほうが強いのではないか。ある意味、インターネットのようにどこかのルートがダメになっても、全体としては機能しているしくみ。それさえあれば、ひとつの企業、ひとつの産業がダメになっても、ほかの企業やほかの産業にうつることができる。

リーディング産業がなくてよい(ないほうがかえってよい)、という前提に立つと、それこそ、現在の日本は、企業も産業も多様化し、個人の働き方も多様化・多彩化していて、まさに、理想的な状態なのではないか?(個人の働き方は、正社員、契約社員、在宅勤務、ダブルワーク、フリーランス、個人事業主、クラウドワーカーなど。)
そう考えると、悲観論の先の新しい地平が見えてくる。楽観的すぎるだろうか?

変える!何を?

以前にこのブログで、「面倒くささ」との戦いについて書いたことがある
2009-11-13 - The Power of Words: Kyoko Fukuda's Blog)。「変えること」も、「面倒くささ」との戦いの1つで、ものぐさな私は、ついついおっくうになってしまう。
しかし昨日午後、「面倒くささ」との戦いに勝って(!)ついに、変えた。携帯キャリアを。18年くらい使っていた携帯のキャリア(ガラケー)をスイッチして、iPhone6に変えたのだ。iPhoneはもともと4を持っているが、これは来月に解約する。つまり、2台もちを解消することにした。
iPhoneを最初に買った頃(2010年)は、番号の持ち運びができず、仕事で使っていた携帯番号を変えたくないがために、2台もちとしていたのだ。

ついでに、モバイルのキャリアだけでなく、自宅の光回線のキャリアも変えることにした。1つの回線で2つの番号を使用していたりと、いろいろ複雑だったのだが、ショップの店員さんが親切に、きっちりと段取りを教えてくれた。
これらの変更により、携帯に関する長年の不便さが解消されただけでなく、大幅な通信コスト削減になった(もう一台のiPhone解約費用や、自宅回線の切り替え費用がかかるが、これらのコスト増分は4カ月くらいで解消され、あとはこれまでに比べて“黒字”になる予定だ)。

「変える」ことは、考えだすと面倒だが、「●曜日の●時にショップに行く」など、”何気ない行動”におきかえてしまえばよい。そうすればハードルがうんと低くなることに気づいたのだった。

7周年!

今日、5月1日は、私の経営しているアテナ・ブレインズの創立記念日です。おかげさまで7周年を迎えることができ、8期目に入りました。2008年の開業からほどなくしてリーマンショック、また2011年には東日本大震災。そうした外的要因以外にも、折々に浮き沈みがありましたが、なんとか続けてこられたことを、まずは喜びたいと思います。
今日は決算の相談のために税理士事務所に行ったのですが、その際に、創業以来お世話になっている税理士さんから、「10年目くらいのときには、このくらの規模で……」といった話が出ました。いつも半年先くらいしか見えていなくて、実は数年先を思い浮かべたことはなかったのですが、「10年」という言葉を耳にしたときに、遠い地平がかすかに見えたような気がしました。
10年目に生き残っていられるように、そして、少しでも多くの方のお役に立てるように、まずは体に気をつけて頑張っていきたいと思います。今後とも応援、ご指導を、どうぞよろしくお願いします!

"日本語の科学"の影にこの人あり

年が明けてほどなくして、1冊の本が届いた。
松尾義之さんによる『日本語の科学が世界を変える』(筑摩選書)である。

松尾さんは日本経済新聞社の「日経サイエンス」で長らく編集をされてきた。「サイエンス」の編集部は、私が日本経済新聞社出版局にいた頃(1990年代)には同じフロアにあり、また松尾さんは一時、出版局で書籍編集をしていたこともあるので、私の日経時代の大先輩にあたる。私は1998年に筑摩書房に転職(2008年に退職)し、松尾さんも2000年に日経を辞められて休眠状態だった出版社「白日社」を甦らせ、良質の科学書を次々と出されている。

さて、松尾さんは日経サイエンス時代から現在に至るまでの40年近くの間、科学ジャーナリスト・科学誌(書)編集者をしてきた(この間、Natureの日本特別編集版であるネイチャー・ダイジェストの実質的な編集長も務められている)。日本の名だたる科学者のほとんどに会ってきたのではないか。まさに、“日本語の科学”の生き字引のような方である。そのような松尾さんの書く本が面白くないわけがない。

私が最も面白く読んだのは、湯川秀樹博士が初めて提出した「中間子」の概念が、“日本語の科学”ならでは、という考察である。すなわち、一神教文化の(善悪)二元論の呪縛のない日本において、日本語で科学していたからこそ提出し得た、と。そして、湯川中間子だけでなく、木村資生博士の「分子進化の中立説」もこのような文化的背景のもとに生まれたのではないかという推論にも、とても説得力を感じる。また、東西文明の違いから、それまでの西洋の微生物学に欠落していた世界(アルカリ環境)に気づいた掘越弘毅博士をめぐるエピソードなど、なるほどこれが“日本ならでは”の科学か、と思わされるエピソードに事欠かない。

挙げていくときりがないでこれくらいにするが、最後に、松尾さんらしさを示すエピソードを本書から1つ。松尾さんが西澤潤一博士に「日経サイエンス」に解説論文を書いてもらったときのこと(1983年頃のことだ)。

「最初にいただいた原稿の内容は、私にはまったくわからなかった。仕方なく特急列車で仙台まで出かけ(東北新幹線の開通前だった)、教授室で朝から晩までかかって、一つ一つ、内容を解説していただいた。編集部に帰り、私が理解できるレベルでリライトし、草稿試案を作ったのだが、その原稿量は10倍近くになってしまった。お書きいただいた1万3000字が12万字を超えてしまったのだ。これでは雑誌に掲載しきれない。そこで申し訳ないのだが、静電誘導トランジスタの筋だけに話を絞り込み、叩き台をつくらせていただいたのである」(P.162)。

“日本語の科学”を支えているのは、こうした心ある人であることを知ってもらうためにも、ぜひ本書を読んでいただきたい。

日本語の科学が世界を変える (筑摩選書)

日本語の科学が世界を変える (筑摩選書)

境界が消える時代に感じる未来の足音

変化というものはひたひたと訪れるので、一つひとつは小さな変化でも、はっと気がついたときにはすでに大きく変わってしまっている、ということが多い。
最近、主にウェブやソーシャルメディアを眺めながらとくに感じるのは、「私」と「あなた」と「みんな」との境界、「私有」と「共有」の境界が、どんどんあいまいになりつつあるということだ。

いくつか例を挙げてみよう。
・セルフィー(自撮り) 撮る人と撮られる人、他者の目と自分の目の境界がなくなってきている(デジカメがでてきたときに「モノ撮り」をする人が増えたことが、当時大きな驚きだったけれど、スマ―トフォンによる「自撮り」の普及は、それ以上に衝撃的)

・Pinterest 所有(私有)と共有の境界があいまいに。自分の部屋にピンで好きな画像をクリップする、というアナログ時代には超私的だった行為が、共有のものとなった。

・チャット 書かれるのに「チャット」と呼ばれることが象徴するように、語り言葉と書き言葉の境界があいまいに。

・ダイアリーのブログとしての公開 日記(=本来、非公開のもの)の公開。

・メールマガジン mail(手紙)は本来1:1のはずのものが、1:多に。

・ソーシャルネットワーク 人間関係(誰と誰にコネクションがあるか)という、従来は秘密だったものがオープンに。

・スナップチャット(10秒で消える動画・写真) 写真や動画というのは、消えてしまうものを記録し、永遠にとどめるために発明された。それが10秒以内に消えてしまう。複製芸術を根本から覆すような新たなツールだ。

このように、「私」と「あなた」と「みんな」との境界、「私有」と「共有」、あるいは「所有」と「使用」の境界があいまいになっている現在、「たしかなもの」、たしかな手触りのあるものをどうやって見つけていくのか。
いくつかのヒントがある。

・「農」の再発見
家庭菜園を借りたり、あるいは若者が地方にIターン、Uターンして農業にたずさわったり。あるいはそこまでではなくても、「食」への関心から産地を気にするようになったり。「農」の再発見は、「たしかなもの」をもとめての動きのように思える。

・DIY(ブリコラージュ)「手作業」の再発見
DIYブームは、手作業、手仕事の再発見ではないだろうか。家の雨漏りを直したり、洋服に開いた穴ををつくろったり。お金がない時代にしかたなくやっていたことが、今は、「楽しみ」として行われる。(かく言う私も、最近すっかりDIYにはまっている)

・新しい「時間資本主義」
松岡真宏氏の近著『時間資本主義の到来』は示唆に富む。そこで示される世界は、時間が統一のモノサシとなった近代から、複数の時間が存在した「前近代」への逆行のようにも見える(ポスト・モダン=プレ・モダン)。氏曰く、「さまざまな情報が手に入るようになった時代、最終的に残るのは1対1で話をすることの価値だけなのだ」。

これらのヒントから、おぼろげながら、新しい地平が見える。それを、大胆に予想すると…。
・舞台やライブ、演奏会など、一回きりの(再現性のない)のものの価値が高まる。
・多読の時代から精読が見直される時代、精読に足るテキストが評価される時代になる。
・1対1で人と会うこと、読書会や朗読会、勉強会などのリアルの会合にゆっくり時間をかけることが、贅沢な楽しみになり、そうしたことを可能にする空間や、それをオルガナイズできる人が価値を生む。
・「手作り」に象徴される、ただひとつのもの、の価値が高まり、職人仕事が見直される。
・現在のペットブームの先に、子供を産み育てること(不確かで予測不可能で、再現性がなく、ただひとつのもの)が究極の贅沢として見直されるようになり、少子化に歯止めがかかる。

予測なので、もちろんはずれること覚悟だが、こんなふうに未来を考えてみると、先行きは案外暗くないのではないだろうか。
 

ユニバーサルデザインで世界をかえる人・松森果林さんの新著『音のない世界と音のある世界をつなぐ』から見える希望

松森果林さんのことは、当ブログでも2度ほど取り上げたことがあります。(美しく雄弁な言語、手話  祝・「わさびの匂い」警報装置イグノーベル賞

その松森さんから、新著『音のない世界と音のある世界をつなぐ ユニバーサルデザインで世界をかえたい!』(岩波ジュニア新書)が届きました。「聞こえる世界と聞こえない世界両方を知る立場から、その二つの世界をつないでいく」ということを生涯のテーマとしている松森さん。新著は、そのテーマにピッタリ合致した読みやすい本となっています。

松森さんとは、2003年に『星の音が聴こえますか』(筑摩書房)という彼女の処女作をお手伝いして以来、おつきあいが続いています。魅力的な人柄に加え、仕事に対するプロフェッショナリズムという点から、私が最も尊敬する人の1人です。そこでここでは、新著を引用・参照しながら、私の経験も踏まえて、松森さんの魅力・強みを伝えていきたいと思います。

松森さんは、同書の冒頭で、「私の特性、そして強みは聞こえないことです」と記しています(ⅲページ)。その特性・強みが彼女の「芯」を形作っていることはもちろんですが、私から見るに、ほかに3つの強みを松森さんは持っています。1つ目は「あきらめずに粘り強く」、2つ目は「実践志向:「できない理由」でなく「できる方法」を見つける」。そして3つ目は、「コミュニケーション力が道を開く」。順にお伝えしていきましょう。

1 あきらめずに粘り強く

松森さんは「CMにも字幕を」という取り組みを10年以上前から続けてきました。そして、それがついに実をむすび、2010年のパナソニックCM、2011年の花王のCMに始まり、2014年現在、9社がトライアル放送中だそうです(183ページ)。それがどのようにして実現したのか、「あきらめずに発信を続ける」という、その名もズバリの項(184〜193ページ)のなかで、経緯を書かれています。まずは『月刊ニューメディア』という雑誌の編集長の吉井勇さんという方に共感してもらって雑誌に特集を組んでもらう。国際ユニヴァーサルデザイン協議会の立ち上げとともに個人メンバーとして参加、「CMにも字幕を」を課題として取り上げる。企業で講演する機会などを見つけては各社にその必要性を訴える。そうした地道かつ戦略的な活動が実を結んでの「CMにも字幕」の実現だったのです。

もう1つ例を挙げます。「井戸端手話の会」。この取り組みについては、『星の音が聴こえますか』の中でも触れていているので、こちらも2000年代の初めから10年以上実施していることになります。松森さんはこうしたご近所とのおつきあいを通じて、耳が聞こえなくても、何かあったときには情報が常に入ってくる状態を保ちながら、お子さんを育ててきました。新著『音のない世界と音のある世界をつなぐ』の中で、2011年の震災のときのことが書かれていますが、その際にも、手話のできるご近所のママ友から、息子さんが学校の体育館に無事でいる、という情報を得ることができた様子が書かれています。

2 実践志向:「できない理由」でなく「できる方法」を見つける

先の「CMにも字幕を」のところでも見たように、松森さんは「ビジョン」があると、そこに向けて、粘り強いだけでなく、戦略的かつ実践的にステップを踏んでいきます。ユニバーサルデザインというのは、まさにそうした彼女の実践志向が生きる場だと思います。だれにとっても使いやすい、ということを、「思想」として訴えるというより、具体的なモノのカタチやデザインとして世の中に送り出していく。そうした実践志向の松森さんの貢献が、日本だけでなく世界に認められたのが、イグノーベル賞を受賞した「わさびの匂いで知らせる警報装置」です。

耳の聞こえない松森さんは、情報入手の手段として、視覚情報だけでなく、「匂い」による情報についても早くから着目していました。「匂い」に関わる商品開発を行っている会社の役員の方の講演を聞いた機会をのがさず、聴覚障害者の立場から提案。香りでケイタイの着信を知らせるグッズ付きストラップという、ヒット商品開発にしました。それにつづき、上記、イグノーベル賞につながった「香りで危険を知らせる警報装置」の研究にも、十年近く取り組んできました。イグノーベル賞授賞式で壇上で表彰されたのは化学者の先生たちだったのですが、仕掛人として、彼女の貢献は大きなものがあったと想像します。

3 コミュニケーション力が道を開く

現在、ブログ 松森果林UD劇場〜聞こえない世界に移住して〜やFacebookで日々情報発信を続ける松森さん。しかも、発信するだけでなく、コメント欄やFacebook欄のやりとりが実に丁寧かつ当意即妙で、いつも感心してしまいます。

これは松森さんがインタビューで語っていたことなのですが、名刺交換をした際、その場では手話通訳さんがいないかぎり十分なやりとりができないので、いただいた名刺の方に、あとからお礼をかねて、かならずといっていいほどメールでお礼をする、というのです。そこからコミュニケーションが始まり、彼女のファンが増え、仕事にもつながっていく……、という良い流れができていると感じます。

上で挙げた「井戸端手話の会」も「CMにも字幕を」も、「香りで危険を知らせる警報装置」も、粘り強さや実践志向とともに、彼女のコミュニケーション力が道を開いたともいえます。多くの人とコミュニケーションし、ファンや共感する人、協力者の輪を広げていく。そんな彼女の活動の様子をみていると、「聞こえる世界と聞こえない世界両方を知る立場から、その二つの世界をつないでいく」という生涯のテーマが、遠い目標ではなくて、日々実践されていることを感じます。そんな松森さんの強みと魅力が凝縮された新著、よかったらぜひ読んでみてください。

「人生の編集力」

 7月から9月にかけて、身辺でめまぐるしく物事が動き、なかなか落ち着いてブログを書く気分になれませんでした。
 ここ数日は郵便物にも目を通せないでいたのですが、今日、そのなかで一番分厚い封筒を開けたら、母校の雑誌(「HQ」)の秋号が、5冊分入っていました。7月末に対談を行い、それが記事なったので、見本誌としてお送りいただいたのです。恥ずかしながら、記事の写真をアップします。対談相手は、一橋大学商学部准教授の山下裕子先生。その聞き出し方が卓抜で、ついつい、ふだんは隠している自分の姿が表に出てきてしまいました。こんな感じです。

山下 意外と飽きっぽいのかも(笑)。
福田 ご明察です(笑)。

山下 外見は淑やかですが、中身はワイルドですね。
福田 かなり激しいですから、親しくなると驚かれますね。

そして、山下先生による「対談を終えて」の文章が、いったい誰のことを書いているのかしら?と思うくらい、あまりに素晴らしいので、引用させていただきます。

福田さんの魅力は、その才能と力が幾重にも層をなしているところにある。最初はソフトな物腰層の下にあるクールな仕事人層に圧倒されるが、その層の奥に、野獣のように獲物を狙う肉食層が隠れているのである。しかし、お話を伺うに、もう一つ奥の院があるらしい。それは、ダイヤの原石を探して、ぼーっと考え続けている層だということ。

そう、家族はよく知っていますが、大概、家ではぼーっとしているのです(笑)。その周りに幾重もの層がある、ということが、私にとっては大きな発見でした。
ところで、山下先生がつけてくださった、この対談のタイトルは「人生の編集力」。実は、私の人生もまた新たな章へと変わりつつあります。そのあたり、また機会をあらためてご報告させていただきます。

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「敗北」宣言から1カ月、その後の急展開

前回、「転職、独立。「敗北」からの出発」という記事を書いてから約1カ月。様々な反響をいただき、身辺がいろいろ急展開をしています。新しい仕事のオファーをいただいたり、前からやっていた仕事の関連で、新たなプロジェクトが始まったり、同窓会誌のインタビューを受けることになったり。独立して仕事をしている身にとって、自分のブランド管理というのはとても大切で、「敗北」宣言をすることはマイナスになるかも、という恐れはありましたが、正直に書いてよかったと、今は心から思います。

転職、独立。「敗北」からの出発

 久しぶりに、ちょっと真面目なテーマ、自分自身のキャリアについてのブログです。
 今年4月に、母校の卒業生女性向けのイベントを手伝った関係で、自分自身のキャリアについてふりかえる時間が増えました。これまでも当ブログにちらちらと書いてきましたが、あらためて、少しまとまった形で書いておきたいと思います。
  私が大学を卒業したのは1990年3月。前年の年末に、日経平均株価が3万8915円をつけ、世にいうバブルの絶頂期です。就職活動は、大学4年の5月に「解禁」になりましたが、同級生たちが5月、6月で就職を決めていく中、私はなかなか決まらず、夏の間もずっとリクルートスーツを着て企業をまわっていました。最終的には、9月に行われた新聞社の後期採用試験(当時は、新聞社は5月頃と9月と2回に分けて採用試験があった)を受け、その後の面接で内定をもらうことができ、翌春、その新聞社の書籍出版部門に就職しました。
 もともと、「早く家を出たい、自立したい」というのが、10代の頃の最大の目標であった私にとって、社会人になる、働いてその対価として給料を得られる状態になったということが、まず嬉しくてしょうがありませんでした。そして、仕事内容も、昔から好きだった編集の仕事でしたから(私は小学生の頃から、文集の編集などをやっていました)、とくに最初の1年くらいは、毎日が新鮮で何もかもが楽しい、という状況でした。
 2年目、3年目となると、徐々に結果が求められるようになり、身体を壊したりと苦しい時期もありましたが、なんとか結果も出せるようになり、この間に結婚。社会人になって5年目には第一子を出産しました。当時の職場には、女性の先輩で出産して復帰した方がおらず、ルールがなかった分、逆に、男性の上司には、ずいぶん柔軟に対応していただき、とても感謝しています。出産前は、1カ月に150時間残業をしたりしていましたが、復帰後はさすがにそういうわけにはいかず、どうしても自分でなければできない仕事(判断を必要とする仕事)と、そうでない仕事に分けて、そうでない仕事は派遣社員の方にお願いするなどして、なんとか乗り切ってきました。持ち帰り残業もずいぶんしました。持ち帰り仕事を朝の4時までして、少し寝て、7時に起きて、子供を保育園におくって会社へ、というようなこともしていましたが、当時は若くて体力があったので、そういうことができたのだと思います。
 夫の助けもあり、育児と仕事の両立はなんとか実現できていたと思いますが、仕事の専門性の掘り下げなどについて、だんだんと欲求不満を感じるようになり、転職を考えはじめました。実際、新卒で就職して8年半経った31歳の時に、思い切って出版社に転職しました。公募の中途採用です。当時は、出版社の求人は日曜日の朝日新聞の求人欄に出る事が多く、前職を辞める前の2年間くらいは、毎週、目をさらのようにして同紙の求人欄を見ていました。
 念願の転職を果たしたわけですが、当初はけっこう戸惑いました。新聞社と出版社という違いはあっても、仕事内容は同様に書籍編集でしたから、「つくるものが一緒なら、あまり大きな違いがないだろう」と思っていましたが、会社のカルチャーはまったく違いました。新聞社は、良くも悪くも発想が「デイリー」なので、とにかく早く(速く)仕事をすすめることがよしとされ、終わらなければ徹夜してでも仕事を間に合わせます。一方、転職して入った出版社は、万事ゆったりしていました。30年かかってシリーズものを完結させたり、ということに象徴されるように、「早く(速く)」仕事をすることより、正確で丁寧な仕事をすることのほうが重視されているように見えました。
 このようなカルチャー・ギャップで最初は戸惑いつつも、たとえば、著者と深くていねいに付き合うといった、書籍出版社ならではの良いカルチャーも学んで、6、7年はわりあい、楽しく過ぎて行きました。この間に第二子にも恵まれ、二人の子の育児との両立も、なんとかこなしてきました。
 しかし、この第二の職場でも、またもや現状に飽き足らなくなってきました。入社して8年目くらいのときに、規模の大きな仕事をして、私自身は「結果」を出したことに満足していましたが、必要な社内調整が不行き届きだったりして、この「勝利」は苦いものとなりました。「結果を出せば、新しい道が開けるだろう、新しいチャレンジが待っているだろう」と勝手に思いこんでいたのですが、そういうことは何も起きませんでした。育児の一番大変な時期を抜けて、トップギアで走れる状態になり、満を持してトップギアで走って結果を出したところ、「そんなにスピードを出さなくていいから、もっとまわりをよく見て安全運転したら」と言われたように感じたのです。
 それで、「安全運転」の技術を身につける道を選ぶか、あるいは「けもの道」に降りることを選ぶか、迷いました。半年ほど逡巡した結果、会社を辞め、独立創業することにしました。その2年前に会社法が改正されて、会社設立が容易になっていたことが追い風となりました。独立創業は、ちょうど40歳のときですが、私にとって40歳というのは、新しいことを始めるのにギリギリの年齢だったと思います(これは個人差があると思います)。幸い、独立後はいろいろな出会いに恵まれ、半年ごとくらいに仕事内容を少しずつ変えながらも、今日に至るまでの5年間、なんとか続けていくことができています。業績に浮き沈みがあるものの、万事自分で決めることができるスタイルは、(せっかちでわがままな!)私に合っているようです。
 会社勤めをしていた18年間については、仕事の結果に対しては後悔がないのですが、自分が会社の中で何を実現したいのか、といったことをもっと社内の人達に話すべきだった、という点に関してはおおいに反省しています。創業した会社(アテナ・ブレインズhttp://athenabrains.com/)のミッションに、<「言わなくてもわかる」というのは幻想であり…>と書いているのには、そういう私自身のほろ苦い経験が込められています。
 こうして振り返ってみると、私のキャリアの前半(40歳まで)は、「敗北」の物語であることがわかります。正直に言うと、なかなかそのことを自分で認めたくなかったのですが(笑)、やはり前に進むためには「負け」を認めて、いったんリセットするしかありません。そしてそこから先は、新たに選んだ道について後悔することがないよう、努力をしていくだけです。
 幸いなことに人生はけっこう長いので、これからの後半人生は、個人としての仕事人生を充実させるだけでなく、「失敗」も含めた私自身の経験をあとからくる世代に伝えて、せめて“踏み台”にしてもらえれば、と思わずにはいられません。

創業5周年を迎えて

 ㈱アテナ・ブレインズ(http://athenabrains.com)を創業して、今日で5周年を迎えました。
 当初想定したより、会社の成長はだいぶゆっくりですが、なにはともあれ、まずは5年続いたことを喜びたいと思います。先日、税理士さんと話した時に言われて印象的だったのが、「創業から5年は、会社の存在そのものを、まず世の中に認知してもらう時期。5年目~10年目は、その会社の事業内容が知られていく時期」という言葉でした。たしかに、この5年はいただいた仕事をきちんとこなすのが精いっぱいで、アテナ・ブレインズはこんな会社、というカラーを確立するところまでは至りませんでした。
 ちなみに、ここ数年で手がけた仕事をいくつかご紹介すると、
・企業トップの社内向けメッセージ発信の支援(基本ストーリー作成)
・企業のビジョン&ヒストリーブックの作成
・事業内容の構造化、ウェブサイト掲載メッセージの作成
・プロフェッショナル・サービス・ファームの文書作成(構造化)支援
・ベンチャー企業社長のブランディング支援
・メーカーの販売促進媒体の品質向上サポート
・科学者、技術者、経営者のインタビュー、記事作成/編集
・プロフェッショナル個人の専属編集者(執筆支援)
 といった感じです。創業当初は、コミュニケーション・コンサルティングと、スピーチライティングを柱にしていきたいと思っていましたが、まだそうした分野の仕事の比重はあまり大きくありません。一方、創業当初は予想していなかったのですが、科学技術分野や、B to B領域でのメッセージ発信支援の比重が大きくなってきています。
 考えてみれば、「構造化」「わかりやすく伝えること」を得意としているので、業種や分野をとわず、そうした必要性の高いところから、お声をかけていただいているということかもしれません。
 これから先は、会社のカラーをだんだんとはっきりさせていき、5年後に、「10年続いてよかったね」というだけでなく、もう少し上を目指したいと思います。
 引き続きご支援のほど、よろしくお願いいたします。